4月23日、「夢は夜ひらく」や「銀座の女」などを手掛けたことで有名な作曲家曽根幸明さんが亡くなったとのニュースが流れました。亡くなったのは4月20日。原因は肺炎だったとのことです。享年83歳でした。
今回は、曽根幸明さんの足跡、代表作「夢は夜ひらく」について調べていきたいと思います。若いころ少年院(正確には関東特別少年院練馬鑑別所)に入っていたというのは有名な話の様ですが、どのような人生を送ってこられたのでしょうか。
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曽根幸明さんの略歴
1933年12月28日生まれ、東京世田谷区のご出身です。日本大文学部を中退されたのち、藤田功として歌手や俳優活動を行われていました。この頃の出演作には、次のようなものがあるようです。どれも直球なタイトルですね。しかも頼りがいのある男臭さが全面に出ています。
- バラケツ勝負(1965年)
- 続男の紋章(1963年)
- 借りは返すぜ(1960年)
- 今夜の恋に生きるんだ(1960年)
- 命との対決(1960年)
その後、本名の曽根幸明で作曲家として活躍されます。
自作曲としては本稿のタイトルとした「夢は夜ひらく」、「座頭市子守歌」、「いつかどこかで」、「流氷子守歌」、「銀座の女」、「命預けます」などが有名です。
この中の「夢は夜ひらく」は、鑑別所内でギター片手に作り思い思いの歌詞をつけて歌っていた「ひとりぽっちの歌」がベースになったものです。この時すでに才能は芽吹いていたのでしょう。同房の仲間たちも曲に詩を付けていき、何十番分もの歌詞があったそうです。
作曲家として活躍される中、ものまね番組の審査員としてテレビ番組にも出演。親しみやすいキャラクターでお茶の間の人気を得ました。また、お昼のラジオ番組も持たれていたそうで、現在のアール・エフ・ラジオ日本の顔として活躍されました。
その後、病気治療のため、一線を退かれますが、晩年まで創作活動は続けられていたとのことです。
著書には「


代表曲夢は夜ひらく
誕生秘話
先ほど紹介したように、この曲は、鑑別所内でできた「ひとりぽっちの歌」がベースになっています。出所後、地方のキャバレー回りで細々と生計をたてられていたそうですが、再起を期してこの曲のデモテープを作成し売り込み。そして1965年テイチクレコードから発売されます。
売り上げは数千枚にとどまり、思ったような結果とはならなかったようです。歌詞はタイトル通り、主人公はひとりぽっち。お母さん、お父さんを思いボヤき、頑張ろうと決意する内容です。
しかし翌年、某芸能事務所から「歌詞を変えて使いたい」との連絡が入ります。
ここで「ひとりぽっちの歌」が生まれ変わります。歌詞を変え、タイトルを新たに「夢は夜ひらく」とし再出発です。
ナベプロの園まりさんが歌ったこの歌が「夢は夜ひらく」の始まりです。
当時を振り返り、ご本人は次のように語っています。
ぼくの人生にとってみればまさに起死回生、土壇場の逆転サヨナラ満塁ホームランといったところである。この曲のヒットがあと一年、いや半年遅れていたら、借金で首をつっていたかもしれないし、現在の曽根幸明も存在しなかっただろう
詩を変えて次々歌い継がれる
この曲「夢は夜ひらく」はこの後、詩を変える形をとり、数多くの歌手に歌われます。例を挙げると、- 緑川アコ
- 三上寛
- バーブ佐竹
- 水原弘
- 八代亜紀
- ちあきなおみ
- 梶芽衣子
- 藤竜也
- 五木ひろし
- 細川たかし
- 牧村三枝子
- 香西かおり
- 大杉漣
- 愛川欽也
- etc.
JASRACのデータベースで「夢は夜ひらく」検索すると、48件も出てきます。タイトルに(歌手名)のような登録でだぶったりしていますので、純粋には32件の曲がヒットします。
なお、今回のニュースに取り上げられていた藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」はこの中の一つです。
曽根幸明さんの作ったメロディー。これが多くの作詞家の心をつかんだという事なのでしょうね。
またそれぞれの歌い手の魅力が加わり、聴衆の人気を得たのでしょう。
曲は同じで歌詞が違う、というヒット曲。よく考えてみると他に思いつきません。
まとめ
今回は、曽根幸明さん逝去のニュースに触れ、曽根幸明さんの足跡と代表曲「夢は夜ひらく」について調べました。「夢は夜ひらく」にはものすごい数のカバー曲があるということに驚きました。また、今でもいろいろな人に歌い継がれています。
全バージョン聞いてみたくなってまいますね。
最後に、謹んでご冥福をお祈りいたします。